美しいからだは

東京ワークショップ
9月12.13.14.15.16日

https://www.hino-budo.com/2014TokyoWS.htm
知っている事、出来る事、ここの狭間には相当深い溝がある。
また、出来ることと一口で行っても、同じことでも千差万別だ。
特に対人との関係の場合は、どんなことでも画一化出来ないし、マニュアル化も出来ない。
それは、それぞれに気持ちや身体が刻々と変化し、相互に刻々と反応も変化するからだ。
そして、時間と共に流れてしまうからでもある。
まるで分子を操る科学者のような視点が必要なのだ。
もちろん、そんなことは我々一般人には無理だ。
教室でも、ワークショップでも、また合宿でも「片手両手捕り」という、日野武道での一番基本的な形を稽古する。
武道での技を使った身体感覚を研ぎ澄ます為の稽古でもある。
差し出した片手を、相手が両手でしっかり捕る。
捕られた側は、片手を一定方向に動かすのと膝に体重を乗せていくのを同時に行うのだ。
ここで難しいのは「同時」だ。
同時を自分の意識の分散、つまり、手と膝に注意を分け、それらをコントロールのが難しいのだ。
そして、両手でしっかり捕まえらているから動かない。
そこに力の衝突が起こる。
しかし、相手が捕まえている自分の手、そこを通して相手の捕まえている手の圧力を変えないようにと注意を向ける。
それらが出来ると、相手の力は消えたように、相手は腰から砕ける。
この稽古の中に、先ほどの相互に千差万別の反応があるのだ。
だから、今は出来ても、二度目は出来ない。
あるいは、二度・三度目は出来ても四度目は出来ない等々。
確かな事を中々見つけられない、見い出せ無いのだ。
それが人間の関係性での目に見えない実際だ。
そして捕る側も徐々に敏感になってくるから、一度は出来ても二度目は出来ないということの原因になる。
という具合に、身体の稽古は頭の稽古、そして意識の稽古なのだ。
この稽古はここで書いている、相互に刻々と変化をする、つまり、気持ちや意思が一定ではない、ということが如実に分かると共に、それを察知する感覚が鋭くなるのだ。
そうすることで、雑念の沸かない自分を作り出す。
私はそういった事を稽古すること、それ自体が武道だと考えている。
そしてそれが誰が見ても美しい身体、存在感のある身体になるということなのだ。
大方の人の身体は見えない。
それは頭の中が騒がしいからだ。
また思い込みも激しいからだ。
身体が見えていないから、運動そのものに頼るしか無い。
だからアクロバティックな動きに目が向いてしまうしかないのだ。
アスリートのここ一番での姿は、誰が見ても美しい。
それは雑念がない、つまり、目的一つに絞られた身体だからだ。
だからこそそこに生命の輝きが見え、その事に人は感動するのだ。
感動は関係性そのものであり、無条件のものだ。
だからこそ、関係性そのものも美しいのだ。
東京でのワークショップも、何度も書くように8年目になる。
そこを理解し熟成させてくれている人も増えて来た。
しかし、全体から言えば、沖縄が一番成長しているように思える。
「どうしたの?」と聞くと「疲れた」と座り込んでしまう人が多数いた沖縄。
一時はどうなる事かと思ったが、今年の状態を見ていると、一番進化しているのが面白い。
岡山ワークショップ
9月21.22.23日

http://workshop.digiweb.jp/

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