分からん
6月1日から東京教室は引っ越しします
場所:江東区森下3丁目11-12 千葉ビル1F
地図はhttp://yahoo.jp/m9Xx6B
https://www.hino-budo.com/tokyo.html
日曜日の東京には、ドイツ人が来ていた。
稽古が終って、「言葉としては分かるが、身体では全く分かっていない。稽古します」と明確な事を言っていた。
別段当たり前の事だし、誰もが思っている事だと思う。
しかし、それをきちんと言葉にする、というところが、稽古をどう捉えたのかが明確な証拠なのだ。
もちろん、捉え方の正誤はあるが、それは問題ではない。
間違っていれば、間違っているという事が分かるからだ。
だから漠然と「難しいです」と言うのとは大違いなのだ。
もう一つ言うと、ドイツ人だから明確なのではなく、その個人だから明確なのであって、日本人でもフランス人でも、その意味では変わりはない。
こういった事は一般化しては話せないことだ。
「我慢比べにならないように」ともよく言う。
そうなった時、いきなり子供の運動会になるからだ。
よい年をして、こいつらアホなのか?本気で思う。
いい大人が我慢比べをする為に、お金を払っているのか?
訳がわからない。
我慢比べなら、自分の周りの人間とやればお金もかからないし、ややこしい事も言われなくて済むだろうに。
まさか、我慢比べの為の技術を稽古している筈もない。
しかしこれは「思い切り踏ん張って」という私の指示が、この我慢比べを誘発しているのだと思う。
そうなると、武道での「受けの稽古」という事を説明しなければならない。
そこに想像力を働かせてくれれば、説明の手間も省けるのだが。
何れにしても、毎度のことながら「稽古になる」のは難しいと思う。
教室に来て、相手と組みなにがしかをすることが稽古なのではない。
それはただの体操であり、汗を流す運動に過ぎない。
一つ一つのことにルールがあり、それを辿っていく事。
それが稽古だ。
だから、技術が身に付いていくのであって、ただ単に汗を流したからといって、また分かった風な言葉を並べたところで技術が身に付く事ではない。
それほど甘くはない。