全く違うこと

2014福岡ワークショップ
6月20,21,22日(金・土・日)
http://rbchinoriron.web.fc2.com/workshop.html
先日、私を特集した雑誌「秘伝」が送られてきた。
編集者が力を入れていたので、そういう仕上がりになっていた。
早速生徒の一人か面白い反応を示してくれた。
「私達とは、全く違うことをやっているのですね」だった。
人は何を見ているのか、とよく書くが、まさしくその事だ。
文章を読めば、理解できるが、実際として見ているのは、また体験しているのはその文章に書かれてあることではないのだ。
文章を理解できるといっても色々ある。
この場合の理解は、国語力としての理解の事だ。
実際として行われていることを、文章として理解したのではなく、国語力として理解した。
だから「私達とは~」となるのだ。
ここを人は誤解してしまうのだ。
国語力の理解が、実体としての理解、つまり、実現できるということと勘違いしてしまうのだ。
もちろん、国語力も大事である。
しかし、それよりも大事な事は、実体としての理解だ。
実体としての理解というのは、その事が実体として出来るということである。
ここにも、間違う元が有る。
その事が出来る、というのは、手本と同じという意味であって、「そのような」ではない。
それの検証はどこで出来るのか、というと、応用力にある。
応用力が伴っていなければ、その事が出来るというのは、文字通り「それしか出来ない」ということで、単に似たような現象を出す事が出来るだけなのだ。
しかし、それが間違っているのではなく、その事の積み重ねが本当の意味で「それも出来る」になっていくのだ。
だから、それこそ言葉的にいえば「それが出来る」ではなく「それも出来る」になるのだ。
また、国語力的理解の場合は、実際に何が行われていて、この言葉になったのか、ということは、それこそ理解出来ない。
それは、実体の中に、実際としての何かしらの核が育っていなければ、その事は理解できないのだ。
それを育てるのが稽古だ。
伝統芸能では、看取り稽古から入る。
しかも、年端もいかない時からだ。
先日、狂言の野村萬斎さんのお子さんが、デビューする迄のドキュメンタリーをやっていた。
3歳に舞台を踏むのだが、それ以前から、舞台に楽屋に出入りするし、お父さんの舞台は必ず見る。
もちろん、そんな子供に言葉は無用だ。
だが、言葉は聞くとは無しに、身体に染みついていく。
そういった雰囲気や、様々な雑多な事が人を形成していく。
3歳のデビューで40分の演目をやり切っていた。
ほんとに人というのは素晴らしい。
6月1日から東京教室は引っ越しします
場所:江東区森下3丁目11-12 千葉ビル1F
地図はhttp://yahoo.jp/m9Xx6B
https://www.hino-budo.com/tokyo.html

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