過度な期待を
2014福岡ワークショップ
6月20,21,22日(金・土・日)
http://rbchinoriron.web.fc2.com/workshop.html
このところ、本部の道場にも外国で武道を稽古している人が来る。
昨日も、日本人とスペイン人が来ていた。
どうにもならない、私の英語だけだから、相当面白い。
しかし、稽古そのものは見えるし、感じ取る事が出来るから進む。
もちろん、見えるのも感じ取れるのも、その人のレベルだから、実際は何も見えていないし、感じ取る事も出来ない。
でも、それは仕方が無い。
比べるという作業を抜きにしては、確かな感覚を養う事が出来ないからだ。
そこに、相当の量が必要なのだ。
昨日は、久しぶりにソフト棒を使った稽古をした。
ソフトというのは、細い竹に水道の断熱材を使って、カバーを付けたものだ。
この道具がどうして良いのかというと、柔らかいから力を込めると曲がるからだ。
つまり、自分が力んでいるのかいないのかを、客観的に知る事が出来るからだ。
相手の首に棒を付け、そこから相手をひっくり返すという荒技だ。
もちろん、力んでは出来ない。
肘や胸骨、膝からの縦系の連動など、要素は沢山ある。
それに取り組むのが稽古なのだが、何時も書く様に「倒す・倒れる」という目に見えることと、そういった「相手より強い」という自覚が欲しい、幼い自意識がそのことを妨害する。
つまり、それがある限り、身体の技術、つまり「技」を作って行く事は出来ないのだ。
昨日は、日本人でスペインに移り住んだ人もいたので、日本語が使えただけ欲求不満にはならなかった。
そういった事を書いていて、ふと言葉が通じるマイナス点を発見した。
日本では言葉が通じるが為に、こちらは相手に過度の期待をしてしまっている、ということに気付いたのだ。
日頃、分かる筈も無い、と言っていながら、言葉が通じるから、無意識的に過度な期待を人に押し付けているのだ。
「そうか•••」だ。
また、身体の技術こそが「技」である、という、当たり前の事を、昨日スペインに住む人との会話の中で気付いた。
「技」ということを、どう説明すればよいのか、とここ十年くらい考えていたが、その答えは昨日私の口から出ていた。
一つの問題を解決するのに、それほど時間がかかるということだ。
6月1日から東京教室は引っ越しします
場所:江東区森下3丁目11-12 千葉ビル 1F 地図はhttp://yahoo.jp/m9Xx6B
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