感覚を疑え

「腕の位置の違いに気付いた」つまり、感覚が成長したということだ。
教室やワークショップでは「まず、自分自身の今の感覚を疑え」という。
というのは、何時からどういう具合に、自分が感覚していることに気付き、それを成長させて来たのか、という事が殆どの人には無い。
つまり、自然成長的にある感覚のままなのだ。
だから疑えという。
例えば、私の知人の宮大工の手は、私とは違う。
当然だ。
しかし、井戸端会議的ざっくりした「違う」というのではない。
宮大工は、宮大工が要求する技術を表現する為の「手」であり、「感覚」を持っている。
それは、培われたもの、獲得したものであって、自然に手に入れたものではない。
鋸を扱う手、ノミを扱う手、鉋を扱う手。
そこにある感覚を含めた技術は、私の手の感覚の比ではない繊細さを持っている。
という具合に、感覚は自分自身の要求、あるいは、自分が何かに取り組んでいるそのものの要求が作り出すものだ。
そういった厳密な要求を持たない感覚は、気分と同調する。
つまり、自分自身の気分によって、感覚も変わってしまうということだ。
だから、「まず感覚を疑え」というのだ。
そして、何を感覚しなければいけないのかが決まれば、本当に感覚出来ているのかどうかを確かめる。
確かめられたら、そこに注意を徹底的に向けるのだ。
それが感覚を成長させる方法だ。
そういった、初期的な段階を抜かして、「私の感覚としては」というのは、夢の中で見る夢だ。

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