やればいいのではない

きれいな字を書こうと思っても書けない。
書かないではなく、書けないだ。
その理由は単純だ。
きれいな字を書いたことが無いからだ。
あるいは、きれいな字を知らない、見た事が無いからでもある。
きれいな字を知り、それをひたすら真似れば、きれいな字は書けるようになる。
そこに「きれいな字をどうしても書きたい」という欲求があれば。
なお良いのは、何の為に、というのが揃っていれば、誰でもきっと早くきれいな字は書けるようになる。
物事の構造を見ていけば、全てはこれに集約される。
しかし、構造はそうでも、こと身体で何かを、ということになると、それほど単純ではない。
身体そのものが、例えば、先ほどの例で言えば、ペンや筆になるからだ。
ペンや筆は、自分の目からその動きを捉えることが出来る。
だから、コントロールもしやすい。
しかし、身体そのものを、ということになると、動いている身体を、自分の目で見る事が出来ない。
ということを知っているのか、知らないのかも問題になるし、しかもそれは一番重要な問題でもある。
ワークショップや教室では、同じ動きを100回でも1,000回やっても同じになる必要があるという。
それは、自分がどうなっていうのかを、感覚を通して掴む必要があるからだ。
でなければ、身体を自分の思うままに、とはいかない。
感覚を通して掴むという事だが、それがなければ、ただ「やった」にしかならないし、記憶されることはないからだ。
もちろん、100回1000回とやれば、そのクセは身体につく。
しかし、それが正しいクセだとは限らないし、むしろ、間違ったクセがつく方が多い。
このただ「やった」を、何がしかの稽古をしたと錯覚している人が多いのだ。
これは、自分が思うように出来ない人の構造でもある。
3月に行う「武禅」では、この感覚を重要視している。
そこに届かなければ、「やった」「やっている」の、形を少し変える事が、「やれた」だと錯覚するからだ。
自分自身の感覚に、あるいはこころに響いたのか、そこだけが関係性で一番の重要な事だ。
そこを徹底的に訓練するのが「武禅」だ。
第90回武禅一の行 3月21.22.23日
https://www.hino-budo.com/buzen4.html

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