思い込みの中で
武禅では「こんにちは」とか「おはよう」といった日常語を、相手に話すというワークをする。
相手から駄目だしを受けると、例外なく臭い芝居にようになる。
人は、「言い方」だと思うのだ。
もちろん、ある種言い方でもある。
しかし、目先の言い方ではなく、文字通り相手に話せれば良いのだ。
逆に言うと、話されている相手が、「私に挨拶をしてくれている、私に話してくれている」と感じれば良いのだ。
それは、話す自分自身のこころなり、感情なりが共鳴するから、自ずと分かる。
相手に話が出来ていれば、頭の中は空っぽになるし、感情が動く。
良い感じになるのだ。
それを「心地よい」というのだ。
だから、「話せた」という実感はそこにはない。
実感があること、手応えのある事の殆どは、自己満足でしかない。
実感に対して、手応えに対しての満足であって、相手に話せたか否かとは、全く関係が無いのだ。
しかし、大方の人はここに拘る。
つまり、そういった教育を受けてしまっているということだ。
スポーツでも無我夢中で、という比喩があるように、手応えや実感の無い時に、良い記録なり良いKOシーンがある。
だから、ここの頭を切り替えなければならない。
話されている人も「私に言ってくれている」という実感や手応えがあるのは、言ってくれているのではない、とプログラムを書き換える必要があるのだ。
ワークの最中に「届きました!」と嬉しそうな声が上がる。
「何でやねん」「どこがやねん」と突っ込みを入れ手本を見せる。
「全く違いました」と大笑いが起こる。
実は感覚も、教育していかなければ成長しないのだ。
つまり、大方は思い込みで日常が成り立っているということだ。
当然、思い込みだから気分に振り回される。
そう言った事が、誤解をしたりされたりの、原因の一つでもあるのだ。
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第90回武禅一の行 3月21.22.23日
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