大空港を見て思った

少し前、wowowで三谷幸喜監督のワン・カット映画「大空港」をみた。
カメラを一度も止めず、編集なしだ。
映画としては、相当な冒険だ。
そういった映画的なことは別にして、その映画を見ていて「何かに似ている」と感じた。
その何かというのは、舞台演劇だ。
何が似ているのかというと、役者の白々しさだ。
白々しく見えるというのは、全てが平面に見えてしまうということ、つまり、台詞を含めて全てがわざとらしい、したがって、全て意識が途切れているとしか見えないということだ。
もちろん、その事がコミカルに見えるのかもしれないが。
そして、それが三谷監督独特の演出なのかもしれないのだが。
立体的であるべき、それぞれの人物の在り様を、台詞回しや台詞の出し方を一定にすることで、平面化する。
その事が、観客にとってコミカルに捉えてしまう。
なるほどだ。
だから逆に言えば、平面に見える為には、台詞のトーンを皆同じようにすれば良い、ということになる。
しかし、大方の舞台ではそういった事を意識していないのではないか。
舞台では、発声が悪ければ、そして滑舌が悪ければ「台詞が聞こえない」という理由で、発声練習を繰り返す。
もちろん、それは大切なことだ。
しかし、ここで言うように、発声練習だけで終われば、その事が舞台を平面化してしまう原因の一つでもある。
そういった事を舞台人は、考えているのだろうか。
舞台装置や役柄、また幕の転換があると、全てが転換される、あるいは、立体的に見えるという、舞台の暗黙の了解に、おんぶに抱っこ状態なのではないか。
そんなことを、この映画は考えさせてくれた。
第90回武禅一の行 3月21.22.23日
https://www.hino-budo.com/buzen4.html

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