芝居を観て
山の手事情社の「ドン・ジュアン」。
何時もながら、色々なアイディアを駆使して楽しませてくれた。
客席からの登場や、ベールを使って存在の有無の設定等、大道具での場面転換では無いところが面白い。
今回、この「ドン・ジュアン」を観る事で、芝居や役者の要素など、改めて考える事が出来た。
終演後山本君や山口さんと一緒に飲み、そんな話で盛り上がった。
例えば、山の手という演劇スタイル以前の、役者としての要素等々だ。
その後、当たり前の事なのだが、ふと気付いたのは、例えば、男性の役、女性の役、それぞれを男性の役者であり、女性の役者でありが演じる。
しかし、舞台に男性が見えないし女性も見えない。
どちらかというと中性だ。
これは、過去の記憶をさかのぼって気付いたことだ。
舞台表現としての、役柄としての女性や男性が見えてこないのは、演出としてそうなのか、全く置き去りにされていることなのか。
そんなことが頭をよぎった。
それは、その役の台詞と、役者そのものが似合っていないからだ。
音声としての音、声と、意味としての台詞や言葉しか聞こえない事が、そういった違和感を際立たせるのではないか。
それは、役者としての発声練習が、そのまま舞台での音であり声として使われていることに起因するのではないか。
ということであれば、芝居の練習や訓練そのものが間違っているのではないか、あるいは、練習が足りなさ過ぎるのではないか。
もちろん、それらは目指すところが違うからなのかもしれないのだが。
私は、全ては関係性だ、と言っているが、自分自身と何かとの関係以前に、自分と役柄、自分と声や言葉という、もっと身近な関係性を突っ込みなおす必要がある筈だ。
第90回武禅一の行 3月21.22.23日
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