自分に時間をかける
昨日、受講者の一人との話の中で「クセのバリエーション、習慣的動きのバリエーションをやっているに過ぎない。だから、習ったら出来るのだ」と私が呟いた。
何も考えていないから、その時の反応で言葉が飛び出す、あるいは、湧き上がる。
当然、後になって覚えていることはない。
また、そんなタイミングがあれば、その言葉が出て来る、という具合だ。
何も考えていない、という事は別にして、この「動きのバリエーションを習っている」というのは、私自身にとって「これや!」というくらいタイムリーな言葉だった。
武道やドラミングを練習している時、「この自分の身体では、ここには行けないだろう」と想像できた。
初めてスティックを持った時、もちろん上手になりたい、いろいろなテクニックを身に付けたいとは思っていたが、「現在の自分では無理」だと見えていた。
それをどう克服していくか、どう成長させるかが、練習だろうと思った。
今では普通になっている、スティックのコントロールで、スティックを握らないという方法。
つまり、バウンドを最大限利用するやり方は、45,6年前には余り一般的では無かった。
その奏法を徹底的に訓練した。
その事で、手が変わった。
「この自分の身体」での、クセとしての動きから、新たなクセを付け、この自分の一部を超えた。
その事は、単純に動作としての一つを変えたことだが、その内容は自分自身の何かを持つことの全てに波及した。
つまり、より本質的な探究の結果が、「この自分の身体」を超えさせたのだ。
何を言いたいのかというと、自分がやれることをやっていては、それは現在の自分のバリエーションに過ぎないから、何も進化成長していないということだ。
もちろん、現在の自分が出来ないといっても、ある種の繰り返しで出来ることは沢山ある。
そうではなく、相当工夫をしなければ出来ない事、それが大事なのだ。
もちろん、このスティックのコントロールは、武道を考える上で、貴重な体験になっているし、考えが迷走した時、必ずそこに戻る事が出来るし、戻る点だ。
第90回武禅一の行 3月21.22.23日
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