話が通じない

丁寧な話し方と、幼児に話すような話方は違う。
どうもそこのところが理解されていない。
また、自分で話して自分で相槌を打つ、そんな人も多い。
以前、知的障害者の作業所の自立を頼まれて、しばらく関った事がある。
その時に、一番気になったのはそういった言葉使いだ。
知的障害があるとは、いっても例えば30歳例えば40歳50歳の方もいる。
そういった人達一律に、まるで幼児に話すように話していた。
あり得ない。
まず、そこを改善させた事がある。
幼児に話すように、話すこと自体、人を馬鹿にしているのか、と感じてしまう。
そしてそれは、ある種の差別感の表れでもある。
「私があなたの面倒を見ているのだ」というようなことだ。
またそういう、自己満足でもある。
普通に丁寧に、それだけで良いのだが、どうもそれが間違っていく。
そういった事を考えていくと、やはり日常での会話の数の少なさが原因の一つだと感じる。
子供の頃の、近所のおばちゃんやおっちゃん、兄ちゃんや姉ちゃん、知らない人との会話。
そういった一寸した事の積み重ねが、話し方を支える感性を豊かにするのだ。
決して話し方が大事なのではなく、それを支える感性が大事なのだ。
それが人と人を共鳴させるのであって、話し方が共鳴させるのではない。
「あほか、そんな話し方はあかん」と言った時、「ではどんな話し方が良いのですか」と来る。
もちろん、その質問は正しい。
但し、言葉面でのやりとりとしては、だ。
しかし、「そんな話し方」というのは、話す方法ではなく、話している内的な状態だ。
何一つ相手に向かっていない感性では、どうにもならない。
特養研修での一コマで、ある組の人達の会話に対して「あの人は、言葉に相槌を打っているだけで、相手から何も感じていない」と、女性の介護職の人が、男性の介護職の人に話していた。
鋭い、その通りだ。
そのことを、男性の介護職に「それ、分かる?」と質問すると、「正直分かりません」と男性は答えた。
「分かれや」とは言ったものの、きっと分からないだろうと思った。
話が通じないのだ。
分かる為の方法は無い。
感じ取れるか否かだけだからだ。

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