身体が見えるのは

フォーサイスカンパニーに招聘されて2年目の時、表現という事についてのレクチャーをした。
丁度その時、カンパニーを退団したダンサーが、這い這いが出来る程度になった子供を連れて、私のワークを見学に来ていた。
私が話をしている時、その幼児が這い這いをして、スタジオを動き回っていた。
お母さんの膝の上に退屈したのだ。
ダンサー達は、温かい目でその幼児の姿を追った。
すかさず私は「今、皆は幼児を目で追いかけたやろ。例えば、皆が舞台でダンスをしていたとするやろ、その時、こんな幼児が舞台を横切ったら、誰も皆のダンスを見ずに幼児を見る。何でやと思う?ここに表現や表出の原点があるんやで」と言った。
皆はキョトンとしていた。
それはそうだ。カンパニーのダンサー達は、例外なくエリート達だ。
3歳や5歳くらいから、バレエを習い、その専門の学校に行き、優等生で卒業し、名門のバレエ団でプリマやプリンシパル、またはそれに準じる人達だ。
その活躍に飽き足らず、新しいことを求めて、このフォーサイスカンパニーに入団しているのだから。
つまり、表現のことなら任せ、という専門家の筈だという事だ。
しかし、私の話した基本的なことは、誰も知らないし習っていない。
その事を鵜呑みにしているから、疑問すら持った事が無いのだ。
自分がダンスを踊っていれば、それだけで成立すると信じて疑わないということになる。
関係性という視点には、気付いていないということだ。
だからキョトンとしてしまったのだ。
どうして幼児の姿に目を奪われたのか。
それは単純明快だ。
幼児は一つの意思しか持っていないからだ。
つまり、幼児は何かに興味を持った、だから、その方向に動いたのだ。
「皆は、色々と頭の中が騒がしいだろう、『ああしよう、こうしよう等と』それが身体を消す役目をしているのだ。だから、いくら演出や舞台構成が立体的でも、観客からは平面的にしか見えず、ダイナミズムの無い舞台になるんだ」
ダンサー達は「そうか」と、何度も何度も頷いていた。
もちろん、頷いたからといって、「一つの意思」が実現するものではない。
それ程難しいものだ。
その難しさは、「一つの意思になろう」と思うからだ。
そうではなく、自分に与えられた役目そのものになれば良いだけなのだ。
ワークショップでも教室でも「やったらええだけや」が私の口癖だ。
その意味では、皆練習不足なのだ。
段取りを追いかけているレベルでは話にならない。
そこでやるべきことをやれるように、そして、やるべきことすら忘れてしまえるように。
そうすると、舞台で身体が際立ってくるのだ。

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