漠然としたもの
ある人にとっては「漠然とした言葉」でも、ある人にとっては「具体的」である場合がある。
それは、全体を漠然とでも掴めるのか、掴めないのかではないかと思う。
そこに必要なのは想像力だ。
想像力をどう使うかが、鍵になる。
その漠然とした言葉はどういうことか、ではなく、漠然とした言葉を、どう画像か出来るかだ。
もちろん、いくら漠然とした言葉であっても、そこにはその言葉が出る状況がある。
状況があるから言葉があるのであって、言葉というものがあるのではない。
そこにも、一つ壁がある。
どうも見ていると、その「言葉」が単独であるような錯覚をしている人が多いのだ。
だから、言葉だけを引っ張り出し、辞書的意味で「どういうことか」となり、ドツボにはまっているケースが多々ある。
一つの状況から、それに適した漠然とした言葉。
それは、それを実体化しようとする人を、飛躍的に成長させる。
私のワークショップでの「表現塾」では、そんなことのオンパレードだ。
特に、ダンサーや役者の人達には、そういったことでどんどん攻める。
その事で、そういった人達の、想像力の実力を知る事が出来るからだ。
今、ある選手にとって「漠然とした」言葉を投げかけている。
その選手が、具体的だと自分で掴めた時、飛躍的に進化する。
それは自分自身の葛藤の度合いと比例する。
思い切り悩んで、ブチキレながら諦めなかったら、それは具体になる。