最初は無邪気に
指示されたことをいきなりする、しない、という話だが、いきなりしない、ということの中味が問題だ。
また、いきなりする、でも出来る人もいる。
そこに、一般化された言葉の難しさがある。
いきなりして出来る人も、いきなりしないで出来る人も、そこに今日筒するのは、動画として頭に取り込んでいて、それが明確がどうかで、時間がかかるかどうかだ。
先日の大阪教室で、そういった事の典型的な例があった。
スウエーデンから若いカップルが、日本人のご夫婦に連れられて教室に来た。
その日本人ご夫婦のお子さん3人も一緒だった。
肘の型をやっていたから、それは出来ないので、体重移動の基本稽古をさせてみた。
この若いスエーデン人のカップルは、いきなりする組だった。
でも、なんとはなしに出来ていった。
だから、どんどん難しくさせていった。
それを見ていた子供達は、見様見真似でそれをやっていた。
もちろん無茶苦茶だ。
試しに、教えて見た。
そうすると、易々とそれをクリアさせていった。
当たり前だが、形だけだ。
しかし、教室の大人たちやスエーデン人は苦戦していた。
どうして、子供達には出来るのか。
無邪気に見て、無邪気に真似るからだ。
ここの無邪気に、というところがポイントになる。
無邪気にしようとしても、無邪気にはならない。
無邪気でなければいけないのだ。
違う角度から言えば、難しく考えるから出来ないとも言える。
自分の知っている理屈を直ぐに当てはめてしまうから、その理屈に縛られて出来ないのだ。
東京教室でも、子供が一緒に稽古をする時がある。
それを見ていると、やっぱり無邪気に捉えているから、難しいことでもさっとやってしまうことがある。
もちろん、それが出来ることに意味が有るのではないから、子供が出来ても意味は無い。
しかし、その形が出来なければ、そこから探求していくことも出来ないのだ。
東京で形をするのに手間取っている人に「まだ、玄関の前にも来てないで、玄関を探し回っている状態やで」と大笑いした。
何事も、最初は無邪気に、それが獲得する鍵だ。