結果よければは
ワークショップや教室で、組稽古の一つを指示したとする。
そうすると、大方は「ハイ」という返事と共に、指示されたことをしようとする。
これは、誤った行動だ。
フォーサイスカンパニー他の一流のダンサーや、トップアスリート達はいきなりは絶対にしない。
まず自分で指示されたことの動作確認を一人でする。
そして、その人なりの身体の確認が済めば、指示されたことに取り組むのだ。
ここの違い、あるいは差は何なんだろう?
これは長年不思議に思っていることだ。
やりなれた仕事なら、少しくらい違った指示でも、「ハイハイ」という感じで出来るだろう。
しかし、こと身体を動かすことで、しかも、結果よければ全て良し、という世界ではなく、その過程にこそ意味がある、という世界では、これは全く通用しない。
どうもその辺りの認識不足というか、自己過信というか、修得方法を知らないというか、そういった要素が複合的に、寄り集まっているような気がしてならない。
そういった事を考えると、つくづく何事かを修得するのは、そのものが難しいという事もあるが、修得方法そのものが難しいのだと思う。
それはきっと、昔日の頃から同じだと思う。
だから、伝統が途切れてしまうことが沢山あるのだろう。
想像するに、数百年前でさえ難しいとしたのなら、現代の様に時間に追いまくられている時代では尚更難しい。
結果よければ、という考え方にならざるを得ないのだろう。
しかし、それが結果よければに結びつかないのだが。