光るもの

「あの人は光るものがある」というような、他人を褒める言葉を耳にする。
決して悪い言葉ではない。
むしろ、好感が持てる筈の言葉だ。
しかし、妙に違和感が残る。
その言葉を発している人達は、若い人に多い。
だから違和感が残るのだろうか。
自分自身のことを振り返ったとき、そんな歯が浮くような言葉を話したことも、持ったこともないことに気付いた。
つまり、若い頃は自分の事で精一杯で「あの人」には、手が回らなかったのだ。
また、自分が目指そうとする人に対して精一杯で、「あの人」という客観的立場など無かった。
「あの人は光るものがある」と、どうして光る人よりも上から目線で話せるのか。
しかも、話している相手は私で、少なくとも話している若い人の倍以上は生きている。
そして、その若い人の先生だ。
この関係の図式が、私にはさっぱり分からない。
その若い人にとっての関係は、全てがフラットで、尚且つ自分は少しだけ上から目線。
つまり、自分が一番偉いという関係図しか持っていないのだろう。
もちろん、私にとってはどうでも良いことだが、何か違和感が残るので掘り下げてみたくなるのだ。
先日も、「自意識が幼い」という言葉で、色々な人を片付けてしまっているが、実際どうすれば自意識が幼いままで年齢だけ取るのだろう、というようなことを考えていた。
自意識が幼いといっても、これまた千差万別で、様々な幼さがある。
しかし、こういった違和感を感じてしまうのは、どうも共通項があるような感じだ。
同じ幼い自意識の人でも、そのことを真正面からぶつけられる人と、そうでない人がいる。
ぶつけられる人というのは、人が良いが、ぶつけたくも無い人、ぶつけようとは思わない人は、いじけていたりプライドが高かったりする人だ。
もちろん、プライドは高ければ高いほど良い。
そういった人のプライドは、中途半端などこにでもあるような、それこそ幼いプライドだ。
だから、そういった諸々を感じ取り、話をする気にもならないのだ。
「あの人は~」では、どんな光るものがあるのか。
箇条書きで良いから拾い出して見れば良い。
きっと、何も具体的なことは出て来ない筈だ。
11月29.30日
埼玉・彩の国小ホール
開場19時00分開演19時30分
http://www.real-contact.jeez.jp/index.htm

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