また「春」だ!ほんとに時は流れているのだ
昨日はギリギリでの確定申告で、熊野道場に帰っていた。
ソメイヨシノの蕾を道場で見付け、「春」を体感した。
その数日前の低気圧での豪雨で、水は止まっていたが今回はそのまま東京に帰る為に放っておいた。
次回熊野への帰宅時に、水出しが一番の仕事になった。
時差ボケは、過去何十回もなっているが、今回のは一番面白い。
立ったまま寝る。
まるで通勤電車に乗る人のようだったからだ。
しかし、立って寝てしまっても転げない、という事も体験できたのは良かった。
その状態での稽古。
ま、その稽古の瞬間だけはバシッとしているのが不思議だ。
何も分かっていない人の質問程、答えにくいものはない。
というよりも、答えられない。
それでも言葉は分かるから質問は続く。
海外ではよくある事だ。
だから、余りグチャグチャにしないで、返答する。
それは周りの人からの、その質問した人の印象を悪くさせない為だ。
一応、そこまでは社会的礼儀として気を使う。
しかし、そんな事を全く分からない人は、意味不明の質問を重ね受講者全員から冷ややかな目でみられる事になる。
もちろん、それすら分からない。
自分で自分の事を分からないから、平和だからそれで良いのだと思う。
「あなたは何をどれくらいした、あるいはやっている経験があるのですか?」
そういう質問に切り替える時もある。
こういった道場でのやり取りは、海外特有のものではなく全世界共通している感じがする。
センス的に違う部分もあるが、大方は同じだ。
私に「武道とは」と説明する人もいる。
そんな時、思わず相手の顔を見るが、とっちゃん坊ちゃんの顔・目には私の顔は見えていない事が分かる。
私が疲れていなかったらそれも、社会的礼儀として聞くが、今回の時差ボケのような疲れの時は聴く耳は持たない。
そんな時、その人には「他人」だったり、自分以外の他人が獲得している事や、獲得する過程にある葛藤等を想像すら出来ないのだろうと思う。
つまり、実際的には一桁代の子供と同じ社会性しか備わっていないからだ。
そういった類の人も本当に増えている。
その意味では二極化も、どんどん際立ってきているのだろう。
自分は何をしようとしているのか?そして、自分は何をしているのか?そこを明確にしていないと、生きているとは言わないよ。
自分の持つ幻想の中では生きているが、他人が存在する世界では生きていないのですよ。
「また春になった」その中で自分をしっかり見据えませんか?
時の流れを自分自身の流れだと捉えているでしょうか?
そんな当たり前の事と向かい合う2泊3日「武禅一の行」は5月3.4.5日です。