文化から身体をみると

「文化としての身体」と、身体の動きを見る視点を変えてみる。

文化としての身体というのは、例えば、日本舞踊を習っているとして、日頃の所作を誰が見ても「日本舞踊をやっているのでは?」と思える身体の事だ。
ここに行くまでには、相当の時間と情熱が必要だと誰にでも想像できる事だ。

その視点で世間の人を観察してみると、まずそれが見える人がいない事に気付く。
職人さんといっても、相当の時間を経過していないと見えて来ない。
それこそ「骨の髄まで」それになっていなければ、身体に現れる事はない。
それ以上に、日頃の無意識的な癖が根強いということだ。

10年前、初めてインドに旅行をした。
その時、たまたまウインドウに映る自分の姿に強烈な違和感を持った事がある。
それは単純に、スーツを着ている私の姿が、余りにも似合っていなかったからだ。

インドの人達は、例外なくサリーが似合っていた。
それは、民族衣装だし日常的に着込んでいるからだ。
私のスーツは、余りにも中途半端なのだ。

では、民族衣装としての着物は似合うのか?と、その時自問自答した。
確かに中学1年生頃までは、着物を節目節目で着ていたが、たったそれだけだ。
着物も似合わない、洋服も似合わない「私は何だ?」と問うたのだ。

もちろん、現代の若者達は足も長く洋服というか、ラフなスタイルが似合っている人も大勢いる。
ここには答えは必要ではないが、こういった事を深く考えるのは面白いという話だ。
発展経路が沢山あるからだ。

東京ワークショップ6月4.5.6日
6日締め切り、4.5日4~5席空きがあります。

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