ジェンダーという文化
カナダの知人からのメールで「ニューヨークのキリスト教系の学校で、お父さんお母さんという言葉を廃止して、両親、大人の人と呼ぶようにしたそうや」と書かれていた。
「ジェンダー」という文化もそこまで行くか、と大笑いしたが、きっと日本へもその波は来るだろう。
言葉というか名称というか名詞や形容詞が、ことごとく差別用語だと変更されて久しい。
それこそ、50年前の大阪での下町の通用語は、殆ど無くなっているのではないかと思う。
大阪で、ベタベタの大阪弁を聞く機会が少なくなり、無機質な標準語を若い人たちが使っているのを聞く方が多い。
良い言葉使い、悪い言葉使い(下品・粗野)という違いも含めて文化だ。
そしてそれらは感情を源とする。
思い起こせば、感情的なのは間違っていて、理性的でなければいけない、と言われ出した頃から、こういった文化の崩壊、ある意味での時代の流れがあったのだろう。
それは、間違いなく精神的に弱い、気持ちの弱い人間を作り出す。
もしかしたら、それが変化の目的なのではないかとも思う。
1960年1970年と安保闘争があり、学生達は反対運動を繰り広げた。
フランスでは1968年にいわゆる五月革命が起こっているが、これと1970年闘争はリンクする。
これは若者文化と旧体制との衝突だ。
それが良いか悪いかではなく、それくらい自分の意見を持ち、行動として意見を明確化したということだ。
日本ではそれ以降、大きな闘争は無くなった。
完全に教育が変わったからだ。
多分だが、先ほどの言葉の使い方を変えていったのだろうと思う。
同時に「感情的=悪い」が定着していったのだろうと思う。
感情的と言った時に想像するのは、大方は激高した状態、あるいは、粗野な感じなのではないか。
そんな極端な想像ではなく、花を愛でるのも、自然を愛でる、人を愛でるのも、全て感情だ。
つまり、そういった微細な、あるいは微妙な感性迄削いでしまうのが「感情的は駄目」の行きつく先なのだ。
人間関係は理屈の産物ではない。
もちろん、人間そのものも理屈の産物ではなく自然物だ。
自然の働きとリンクしているのだ。
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