自分への問いが一番大事
昨日は大阪の久しぶりの稽古だった。
「硬い」ということでの話になった。
これを説明するのは中々難しい。
単なる柔軟性での、硬い柔らかい、手が床に着く着かない等は説明するまでもなく、ということだが、内面に関わる事なので難しいのだ。
そして、口から出した私自身もまだまだ解明途中なので、言語化出来ないのだ。
しかし、大事な事は私の説明ではなく、「どういうことだろう?」という自分への問いだ。
確かに日野には硬いと感じる何かを察知している、であれば、それは自分の何なのだろう?という問いだ。
私は、大方の事はこれで処理して来ている。
だから、他人の言葉は指標にしても、答えとして聞くことはない。
何故なら、それは何時も書いているように「その人」の感性であって、私ではないからだ。
もっと言えば、その他人の感性そのものが歪んでいるかもしれないし、自分とは歩んでいる道が違うかもしれないから、絶対に鵜呑みには出来ないのだ。
同じジャンル、あるいは、同じ会社、同じ部署、同じ仕事をしていても、また、同じ武道をやり同じ稽古をしていても、感性は違うし歩んでいる道も違うと思うのが普通だ。
あくまでも、自分の事は自分で、なのだ。
私は説明を考えるのは、私を整理する為であって、他人の為にではない。
自分の中で整理がつかなければ、整理がつかないものごとに辿り着けないからだ。
昨日は、畑違いの見学の方がおられた。
物理学会の人達だ。
演武を見せ、また体験して頂いた後「私のやっていることを物理で解明してくださいよ」とリクエストしたが「いや、これは無理です。心理や精神が関わっているものごとは解明できません」と笑っておられた。
私は、きっと解明できると思っている。
それはセンサーの問題だけだからだ。
そして、物理での定義をどこまで広げるか、という問題だけだからだ。
「日野さん、これ論文にして学会に提出すべきですよ」
「どう書けばよいか教えて下さいよ」
「いや、これにひな形はありません、ひな形があればもうそれは遅いということですから」
と大笑いしてお別れした。
バスドラムと手との関係を、改めて洗い出している。
まるでボーヤに戻ったようだ。
しかし、新鮮だ。
手足の関係が、また緻密になっていくと思う。
もちろん、聴く人にはこういう舞台裏は関係がない。
こんな努力をしていますよ、それが見えたら最悪だ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ
[[youtube:MpGNlwuNc2Y]]