聴くという全身フル稼働
「聴け」と私は言う。
それは、聞こえてくるのを待つ、という意味ではない。
待つという消極的姿勢は、多分生物には無いだろうと思う。
特に野生の動物には無いだろう。
自分自身の身を護るレーダー機能を使わない、ということでもあるからだ。
聴くというのは、全身を使う。
それこそ毛穴の一つ一つから、細胞の一つ一つで聴き取るというようなことだ。
単なる響きや波動を、そのままに受け取ることではない。
ジャニス・ジョプリンの歌から、聞き取れる全ての中に没入する行為のことだ。
小澤征爾さんの指揮に没入することだ。
今回のヨーロッパツアーではたと気付いた事がある。
言葉を分からない者同士、私とフランス人の会話。
そこに通訳をしてくれる人が入る。
そのやり取りの中で、相手のフランス人と120%くらい視線を合わせる。
というよりも、目を通して聴きに入っていくのだ。
俗にいう「食い入るように」という状態だ。
そうすると、通訳が訳してくれる前に、言いたいことが分かる状態があった。
その時は、話に夢中になっているから、そのことに何も感じていなかったが、本当に素晴らしく美しい時間だったと後から思った。
それは、義足をしたお父さんに、その足になった原因を話して貰っていた時だ。
単細胞的な可愛そうだとか、同情というような種類の感情ではなく、もっと深いところでの現在のそのお父さんの何かと触れ合った感じだ。
だからこそ、そのお父さんの義足を蹴る仕草で大笑いが起こるのだ。
もしかしたら、それが相互にこころが開いている、という状態だったのかもしれない。
「聴く」ということの実際だ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ