自分に持つ欲が無いのかな?

「全力を出し切る」とは言うが、アスリートでは無い限り、自分が全力を出しているのかいないのかを見極めるのは相当難しい。
にもかかわらず、この言葉は多用されている。
多分、言葉の持つ雰囲気が良いからだろう。

それは良いのだが、これは決して雰囲気のものではない。
具体的行動を指している言葉だ。
ここが難しいところだ。

雰囲気として使っている限り、自分自身の全力など計り知ることなど出来ない。
私は海外でも国内のワークショップや道場でも、「身体は例外なく天才である」と説く。
しかし、これもここに留めて置く限り雰囲気のものだ。

この雰囲気として用いている言葉を、自分のものにする必要がある。
その為には、それはどういうことか?と問う必要がある。
もちろん、自分自身にだ。
自分自身の人生を振り返り、そのエピソードから、もしかしたらこれが全力か?あるいは子供の頃のこれか?という具合にだ。

結果、先日このブログに貼り付けた「自分は、気が付いたら言い訳だらけのパイセン達のようになっている自分。どんどんダサくなっていく自分に涙が止まらない。」と気づけば、まだまだ救いようがある。
全力で行動すれば良いだけだからだ。

自分の人生なのだから、全力で生きなければ死んでも死にきれないのではないか。
私はそう考える。
だから気が向いたことには、全部挑戦していくのだ。
そこで失うもの、得るもの、全部「私だけのもの」だ。誰ともそれを共有することは出来ないのだ。
そんな視点の持たない暇な人、妬みやっかみ嫉妬しかこころに湧いて来ない人は、クレーマーになるしかないだろう。

私は人を羨ましく思う事はない。
と言っても、もちろん細々とはある。
そんなことはどうでも良いことだ。
つまり、口では羨ましいと言っても、10分もすれば忘れている事だからだ。

その意味で、今の人は欲が無い、あるいは希薄なのだろうと思ってしまう。
挑戦するというのは自分の欲の現れだ。
そして、それを成功させたいと強い欲求も、当然欲だ。
人を羨ましく思わないが、人には羨ましく思って欲しい、これも欲だ。

今回のコンサートで客足は無茶苦茶遅いが、何とか一杯にならないか、と思うのも欲だ。
欲がなければ全力など出し切れる筈もない。

「全力で生きています」
かっこ良いとは思わないのか?
全身脱毛している、イケメンしかかっこ良いと思わないのだろうか?

日野晃’古希’ドラムソロコンサート
6月1日 新宿ルミネゼロ

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