昭和のおっさんだからこそ
内田裕也さんのことを書いていて、「そうか、俺は昭和のおっさんや」と気付いた。
何を今更なのだが、年号は平成と変わり、また今年に変わる。
しかし、やはり幼児体験とでも言うべき、小学生から思春期にかけての強烈な体験は、自分自身を形成したのだろうと実感する。
昭和が良かったとか、どうのこうのではなく、その時代に生まれたから、現在の私、ということで、それはそれぞれにそうなのだ。
現代に迎合するつもりもないし、理解しようとも思わない。
今後も世界は強烈に変化していくだろうが、そんなものと私が生きていることと何の関係もない。
そこが昭和生まれ、しかも団塊の世代なのだろうと思う。
頭が硬いのではなく、頑固なのでもなく、自分自身そのものを貫く、ということを止めないだけなのだ。
テクノロジーの発達と共に、あらゆるジャンルで「方法」が開発されて、その意味でも便利になっている。
しかし、しかしだ。
私が生きる上で大切にしていることと、便利さは全く関係がない。
当時、安物のレコードプレイヤーしかなく、また携帯出来るテープレコーダーも一般には出回っていない時代に、よくレコードコピーをした。
しかも、ギターでサックスやトランペットをだ。
ジョンコルトレーンがどう吹いているのかを知りたくて、レコードに針を落としては上げを繰り返してコピーをした。
1小節コピーするのに、どれほどの時間を要したのかは忘れたが、かなりかかったと思う。
今では、きっとこういう重要なアドリブは、譜面になっているのだと思う。
便利だ。
しかしだ、私は同じようにマイルスやオスカピーターソンなどをコピーした。
その事で、得たのは周辺の事だ。
メインに対するベースワークやドラミングを、何度も繰り返して聞く内にその感じを掴めたのだ。
つまり、コピーされた譜面に意味があるのではなく、その過程の中で目に見えない「感覚」が育った、ということが大事なのだ。
その育った「感覚」は、私のものだからだ。
逆に言えば、便利さは自分を育てない、とも言えるのだ。
と考えるのも昭和のおっさんだからかもしれない。
そこを貫いて生きている「私」のコンサート。
昭和のおっさんを是非体感して欲しい。
昭和のおっさんも捨てたものではない、ということを体感し、明日への糧にして欲しいのだ。
日野晃’古希’ドラムソロコンサート
4月12日 大阪大丸心斎橋劇場
6月1日 新宿ルミネゼロ