分けて考えるのは

こと人そのものも、人の関わる物事も分けて考えるのは、「最終的には分けられない」という前提があり成立する。
もちろん、人が作り出したものなら、分けて考えることはできるし、実際も分けられる。

昨日の神田道場での稽古で、基礎中の基礎である、胴体のねじれからの基本的応用をした。
師範代など古株は、嫌という程この稽古をしてきた。
新しく取り組む人を見て、その事を改めて感じた。

今、目の前で稽古をしているその身体は、10数年の地道な蓄積があるから出来ている事を。
もちろん、私自身もこのねじれは、30年はやっている。
という事を考えると、自分の身体に新しい癖として、何が蓄積されてきたのかによって、現在が決まって来ると言える。

この場合、上半身のねじれの運動、という事で分けて練習をする。
同時に、腕の脱力、肘への遠心力の影響等を感じるようにする。
と分けられるのだが、それを同時に行えるようにする。
という具合に、その稽古の全体へと進む。

また、その上半身のねじれは、下半身、つまり、足を動かす原動力でもある。
こうなると、全身運動になる。
そして、それら一つの身体としての技を作り出しているのだ。


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