諦め、見切り??
20年ほど前、ある大学から講演の依頼があった。
講演が終わり質問になった時、一人の学生が「諦めるということと、見切ってしまうは、どう違うのですか?」と質問して来た。
これは迂闊だった。
言葉としては、軽く話してしまうが、実際私自身で吟味していなかったのだ。
もちろん、その場は切り抜けたが、その後味が悪かった。
その講演で、生徒達に「物事に取り組んだ時、諦めたらあかんで」と力説したから、その質問になったのだ。
私は、諦めも早い、見切りも早いと感じる。
私の場合は、これは無理と感じたら諦める。
こっちの道の方が良い、あるいは近いと感じたら、現在の道を見切って思った方の道に変える。
諦める場合は、例えば仕事だとすると、殆ど1日とか、数時間で辞めている。
見切る場合も同じだ。
よくよく、私自身の方向転換や脱線、逸脱等を思い出すと、「飽いた」「面白くない→面白くしようがない」あるいは、「これは違う」という判断が働いている。
だから、事前にそのことに手をつけない、あるいは、その方向に進まないのだ。
多分、俗にいう「嗅覚」が働いているということだろう。
他人には、「やって見なければ分からない」という。
しかし、自分が取り組むに際して、やって見なくても分かることは沢山ある。
つまり、出来ることと出来ないことは、既に分かっている、決まっているということだ。
ただ、ここに「隣の花は赤い」という思いが邪魔をして来る事が多々ある。
そこのところで、既に分かっている筈を否定し「私にも出来る」と誤解するのかが分かれるのだ。
私の場合は、こういった間を置いた場合、必ず失敗している。
そんなところから嗅覚が働いしていない場合は、取り組まないことにしているのだ。