身体操作は難しい
東京のワークショップを受講してくれていた男性が、やっと休みを取れたと昨日神田道場で受講してくれた。
小さい頃から伝統空手、大学に入ってから剣道、今はその両方をやっているという。
結局、その両方で壁にぶつかっているそうだ。
もちろん、その壁は自分でも分かっているのだが、「どうすれば」が見つからないという。
空手も剣道も、今後どれだけ続けても、突然その壁を乗り越えることは出来ないと分かっていた。
これは、私も持った問題だ。
武道をやり始めて浅かったから、この彼のように深い疑問では無い。
それは、この道場では「柔能く剛を制す」というが、どう見ていてもそれは無い。
というのは、先輩達を見ていると全員筋力体力勝負の人達ばかりだったからだ。
つまり、私がそこで10年稽古をすれば、現在キャリア10年の先輩のようになるだけだ。
これは当たり前のことだ。
いくら自分がオリジナルな稽古を編み出したところで、この道場の色が変わるということはない。
先輩達も自分自身の価値観としての「その体」であり「その動き」だからだ。
これはどんなことにも当てはまる。
その当時は、現在のようにネットも無ければ、そういった情報も殆ど巷には無かった。
だから、この彼が色々探したように、探すことは出来なかったのだ。
だから、しばらくしてその道場を辞めた。
この潮時を何時にするかが、その後の道を左右する。
うだうだしていると、そこの道場の癖が定着してしまう。
先輩達のようになるということだ。
それを目指すならそのままで良い。
自分の目的に対して、そこに違和感を感じるなら、即行動しかない。
「身体塾」から夜の「武道塾」まで、タップリと頭に汗をかいてもらった。
前にも書いたが、稽古の難しいところは、稽古そのものに条件があることだ。
条件が無いと、そこは我慢比べになったり、それこそ忖度が暗黙の内に成立し、のぞむ稽古にならないからだ。
もちろん、その我慢比べも条件として使うこともある。
条件を満たす事も難しい。
「一般的な状態の投げられないように立って」と指示を出した時、大方の場合、身体が緩んで、部分的に力む事しか出来ない。
もちろん、その身体に気付くのは難しい。
多分、これだけで数年はかかるだろう。
身体を操作するのは、それ程難しいものなのだ。
世界レベルのダンサーでさえ、頭を抱えるのだから。