なんやこれ?
技術の向上と、内的な質。
例えば、先日のドラムの技術と音楽性の向上は正比例しているのか?
ここが、常にある大きな問題だ。
もう何年前になるだろうか、世界の小澤征爾さんが「プロは技術ばかり追い求めるが、子どもたちの素直な演奏に涙したことがあるだろう。その子どもたちの気持を失っていないだろうか(そのような事を話していた)」と、また、当時フォーサイスカンパニーにいたヤニス。
そのご両親はギリシャにモダンを持ち込んだ人だ。
お母さんとお話をした時に「今は、技術技術で目がそちら側だけに向かって、中身が育っていない。ダンスの心が全く無い」と嘆いておられた。
この種の言葉は、ウイリアム・フォーサイスからも聞いた「私は、上手なダンス、技巧的なダンスを見たくはない」と。
しかし、そういったこころある人達の思いとは裏腹に、世間は相変わらず技術を求めている。
だから、どんなジャンルでも技巧的な人程評価が高い。
今日、レオさん達をバス停まで送り、一寸一息ついた。
何気なくTVをつけると、有名な歌手のライブをやっていた。
しかし、余りにも聞くに堪えない歌だった。
「このおばはん、こんなんだったかな?」と改めて聞いた。
「何もない」
その昔、「自分だけその気になっている歌手」と思っていたが、時間と共にとんでもなくひどくなっていた。
もちろん、それは間違っている。
その歌手は、きっとそのままなのだ。
私の耳がどんどんより深く聴く事が出来るようになっているだけだ。
どうして、内的な質が向上しているのか。
それは単純だ。
人生を生きる、社会を生きる「私」と、いつも対話しているからだ。
大方の人は、電車で言えば単線路線の人生しか歩いていない。
そこを取って私は「純粋培養の人は駄目」だというのだ。
人生や社会を生きるというのは、常にそこには考えなければいけない問題が現れる。
それに対して、きちんと正面から向き合う。
そのことで、感性はどんどん研ぎ澄まされていっている。
もちろん、これは私の意見だが。