自分を知りたいだけ

例えば、ショーケースにある洋服に目が止まる。
それは、何に対して止まったのかを、その瞬間に考える。
色が綺麗、スタイルが細身で気に入った等々。
だから、目が止まったのでは?と考える。

しかし、その裏にもっとある。
かっこよく見せたい等々だ。
所謂自我の幼い部分に気づく。

ドラムの演奏を見る。武道の動画をみる。
そんな時、「なんじゃこれ」の場合はどうでも良い。
少しでも耳に止まった時、その理由を考える。
この場合も自我の幼い部分に気付く。
「俺もガキか」となる。

もちろん、それは自分自身の確認である。
そのことに気づくことによって、その自我を抑え込んだり無視するのではない。
ましてや、その幼さを否定するのでも無い。
否定したところで、また自己嫌悪に陥ったところで、全く意味はない。
その行為こそ、幼いという証明のようなものだからだ。

そこで、何がどうかっこいいのかを考える。
あるいは、どんな種類の妬みなのかを拾い出す。
そして、出てくる答えに対して徹底的に突っ込むのだ。

チラッと妬みのようなものも出てくる事があった時、それは自分でも驚く。
「アホやんけ」だ。
しかし、それで放り出すと何かの弾みでまた顔を出す。
もちろん、それがどうした?なのだが、その妬みを起因にした行動が現れる事が起こるかもしれない。
それが嫌なのだ。
というよりも、許せないのだ。

もちろん、聖人君子を目指しているのではない。
それには、全く興味はない。
ただ、どれだけ自我を成長させることが出来るのかを知りたいだけだ。

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