習うより学べ
大阪・明鏡塾だ。
こういうセミナーというか講座というか、何かを教えるという形式は、それこそ石を投げれば講師にあたる、というくらい沢山あるのではないかと思う。
「人の役に立ちたい」と、何かを学ぶ為にセミナーのはしごをした人を知っている。
それこそ、家が2軒は建つというくらい、お金を使ったという。
もちろん、それだけお金を使える余裕があるのだから、それは経済に貢献している、という大きな見方では、既にそれだけで人の役に立っている。
日本人は、それだけ「習いたい」という気持ちが強いのだろう。
しかし、同時に思うのはどうして「習えばできる」と思えるのかだ。
自分の力で学び取らなければ、自分の力が育たないし、ものにもならないのが実際であり現実だ。
習うと学ぶは、当たり前だが似て非なるものだ。
教えるという事が好きな人もいる。
それは、一つに人に教えるという立場を作ることで、教えられる人よりも偉いと単純に思っている人だ。
実際的には教えられることは、何一つないにも関わらずだ。
もちろん、形式としては「教える」があるが、そこには同時に、学び取るという行為がある。
そしてそれが主導権を持っているのだ。
教え方が良かったから、良い生徒がたくさん生まれた。
というのは、逆で学び取る力のある人が、沢山いたということだ。
また、学び取る力を身に付けることを教える、というのはある。
そこにある学びには「答えは無い」。
本質があるだけだ。
明鏡塾や、私の教える武道・ワークショップは全てこれだ。
だから、習おうと思っている人には不向きだ。
もちろん、私の教室や道場には、他の道場や教室と掛け持ちの人もいる。
もちろん、それはその人の自由だ。
しかし、何時も思うのは、私のワークをやっていて、他の同じように見えるワークをどうして受けるのか分からない。
そんな時にいつも考えるのは、その人の思考はどうなっているのかだ。
私のワークも、お金もうけだのワークも同じに見えるという、ことが分からない。
それこそ、家が2軒建つくらい、溝にお金を捨てるのよいだろう。
つくづく、自分で物事を考えられなければ、プランクトンの如く、小魚に食われるだけだ。