目はこころの窓、一寸古いか

昨日の稽古に、赤ちゃんを連れて来た受講がいた。
相変わらず、赤ちゃんの「目」は気持ちが良い。
当たり前か。

この赤ちゃんの目は全人類共通だろう。
それが何時しか一様に曇って行く。
病気は別やで。
この赤ちゃんの目に、知性が乗っている人を成長した人と私は呼ぶ。
そして、私は基本的にこの赤ちゃんの「目」の事を、武道や武禅、そして明鏡塾で「聴く目」と呼んでいる。

赤ちゃんの目を見ていると分かるのが、好奇心という意志が明確そのものということだ。
その好奇心は赤ちゃんからの一方通行ではなく、受信も同時に行っているのだ。
「ちゃんと前の人を見ろ」とは、余計な雑念無くということだ。
かつては多分例外なく(生まれ付き目の不自由な人を除いて)この目を持っていたのだからだ。

視力を良くしても、見方を研究してもそうはならない。
なる筈もない。
昔、「目はこころの窓」とはよく言ったものだ。
「好奇心」そのものの状態にならなければ、この聴く目にはならないのだ。
そこを修行していくことを「道」と呼び、相手との対立を主眼としている武を用いて、そこに辿り着くことを目指すから「武道」だと私は考える。

教室や道場、ワーク・ショップでも、この事をトレーニングしますよ。
◆東京・夏のワーク・ショップは6月7.8.9.10日
 神田道場で行います。
場所の都合で1コマ定員30名です。


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