自己肯定感が弱いのは
気分というものを観察していると、ほんと面白い。
もちろん、自分自身のものだ。
一喜一憂とはいったもので、上がったり下がったり、目まぐるしく動いているのがよく分かる。
そんな気分の動きは、何が原因なのかと探っていくと、自分自身の幼稚さというか未熟さが手に取るように分かる。
しかし、の幼稚さ、例えば、嫉妬によく似た気分がある。
その嫉妬は、どこから来ているのかを探る。
その為に、思い出せるだけ古いものから順に表に出していく。
同時に、嫉妬は本能とは関係あるのか無いのかを探る。
もちろん、探るといっても推測の域をでないが。
もしかしたら、生存本能としての、餌を取る欲求から出ているのではないかと思う。
という具合に自分を正当化するのも面白い。
世間では「自己肯定感が弱い」と昨今の人達の事を言っている。
ま、それが本当かどうかは知らないが、ワーク・ショップ等で人を見ていると「確かに」と思う行動が多い。
それは間違った「出来た・出来ない」思考が根にあるからだ。
それと、私のように推察の領域であっても、自分を正当化して楽しむという癖がないからだ。こんな癖は、きっと一人遊びの空想の産物ではないかと思う。
◯◯ごっこ的な遊びを一人でする。
その中の人物なり、何かに成りきって世界を遊ぶ。
その世界では、自分は常に正しい。
それが癖化される。
「出来た・出来ない」の間違ったものをいうのは、完全成功と自分とを比べて「出来た・出来ない」となることだ。
これは、多分に机上の作業だけしかやっていないからでは無いかと思う。
机上の作業の代表的なものは、学校での勉強だ。
そこにはテストという検証があるから、100点で「出来た」80点でも「出来ない」になる。
潜在的にそこが自己評価の基準なのではないかと思う。
しかし、80点を分解したり、過去を振り返った時、出来ていなかった事が出来ているから80点が取れた、という場合もあるだろう。
分解すると、ここまでは分かっていた、とか、自分のやったことを認識出来る。
そうすると、「出来ない」であっても、その中に「出来た」が含まれていることが分かる。
つまり、どれだけ自分に対して客観的な視点を持てるかが、この「出来た・出来ない」を覆す鍵になるということだ。
自分が自分の人生を歩いているのだから、出来ようが出来まいが自分を肯定しなければ誰が肯定するのか、だ。
そして、一番大事なのは、自分が自分を正当に評価すること、出来ることだ。
もちろん、その為には、自分はどこへ向かって歩いているのかがなければならないが。