理解し合うという戯言に惑わされるな
午後からのマルセイユは、50人ほどの受講者がいた。
いつも最初に「初めて受講される人」と挙手を求める。
そうすると、1割ほどが初めてだった。
ということは、残りの人達は全員レピーターということになる。
こればかりは分からないものだ。
どんなタイミングが分からないが、半分は初受講の人がいる時もあるからだ。
その意味で、昨日のワークはやりやすかった。
同時に、自分勝手にやりだしたり、持論を押し付ける人も常連の中にもいるから、それにはイラつくけど、「どうしてそうなのだろう」と考えるネタになるから、放っておくことにしている。
久しぶりに見る顔も沢山いた。
という具合に、それぞれの人の人生の波もあるから、受講者の数や来る回数は気にしないことにしている。
それは、教室も同じだし、ワークショップも同じだ。
と、色々な人を観察することが、本当に「人」を勉強させてくれる。
「どう解釈しておけばよいのか?」を考えるからだ。
そして、お互いに大きな勘違い、大きな誤解が生まれるから、ワークショップは成立している、という非常に大事なことまで学ばせてくれた。
この裏には「人は理解し合う必要はない」という前提があるからだ。
理解し合わなくても、いくらでも「その時間」を共有できるのだ。
もちろん、ここにも大いなる勘違いと誤解が含まれている。
つまるところ、こういった「理解し合う」だの、「共感・共有」というのは戯言だと分かる。
「どうだっていいやろ」なのだ。
そんなレッテルに振り回されていては、「その時間」を生きることは出来ない。
極論はそれよりも、「その場に遊べる事」だ。
これも誤解を生みやすい言葉だ。
逆に言うと「遊ぶ?」と考えなければならない人は「遊べない」のだ。
という具合に、色々な人と交わることは、より深く物事をとらえさせてくれるということだ。
そういえば、昨日は面白い人を紹介してくれた。
マルセイユ在住の日本人だ。
何でもアフリカから生地を取り寄せて、着物をデザインして作り日本に輸出しているという。
その作品を見せて貰ったが、日本の生地ではないので、相当面白い雰囲気になっていた。
日本に着物を輸出する、という発想が面白い。
今日は、9時に迎えが来る、そろそろだ。