自分で見つけ出すこと

何時もとは別の場所を借りて、本当の稽古納めだった。
一つのモチーフから組み立てて行く。
とはいうものの、このモチーフの一つ一つは、基本稽古で培われなければ出来ない。
新しい人が参加していたから、基本の歩法を訓練させてみた。

基本の歩法といっても難しい。
だから、相当必死で取り組んでいた。
もちろん、その難しさは、体重移動の基本、つまり、武道としての「力」になるからだ。
膝と膝の連関や連動。
思えば、愚息には小学1年生から、毎日数時間6年間はこういった稽古をやらせていた。
完全に身につけようとすると、それくらいは時間が必要だということだ。
もちろん、だからといって「やれば出来る」ものではない。

多分、私がどんどん深くなっているのは、深い稽古をする人を見つけ出すからだ。
例えば、文楽の人間国宝である竹本住大夫師。
ある番組で、演目を兄弟子に稽古を付けて貰っている場面があった。
そういった、日本の伝統芸能の世界は、亡き母が芸者だった関係で良く知っている。
こういった事をジックリと考えるほどに、このシステムの素晴らしさを実感する。

人間国宝の住大夫さんは「2回生まれ変わっても、義太夫は語れまへんわ」とインタビュアーを驚かしていた。
そうなのだ。
2回生まれ変わっても、というのは、住大夫さんが探求されたことで、2回生まれ変わらなければ出来ないことが「そこにあるのではない」のだ。
と、発見していったことが「いくらでも深くなる」ということの、私にとっての根拠になっている。

もちろん、人それぞれだから、私にとって正しいだけで、皆に当てはまるものではないし、当てはめる必要もない。

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