妄想を排除するのも向き不向き
何時もの事だが、稽古をしている人を見ていると、「言葉はどのレベルでどう通じているのか?」が分からなくなる。
指示を出しても、全く違う結果、つまり、バラバラの稽古風景になるからだ。
それだけ、個人に蓄積されたものや、考え方、取り組み方が左右するのだ。
それが日野武道研究所の稽古だからだ。
その意味では、向き不向きが明確に見える。
基本的な事を基本的な事として捉え、そこから考え出していける人。
私の本を読んで「日野の考え方はこうではないか」と前もって仮に考えている人。
そういった人や、武道ということでの私の意見に共感している人。
でないと、日野武道研究所の稽古は無理だろうとつくづく思う。
もちろん、この無理は「向き不向き」という点での話だ。
間違って私の教室に来た人は、地獄だろうと思う。
その意味で、自分がどの教室へ行くのかをもっともっと吟味する方が良いと思う。
自分自身はどうしたいのか、は、大事なことだが、それはあくまでも、妄想も入り混じって「どうしたいか」が生まれていることを忘れてはならない。
稽古は、その妄想をどれだけ排除出来るのか、が本筋の一つになるのだが、妄想を妄想だとわからない人は妄想を大事にする。
だから、私の稽古は出来ないのだ。
身体を道具として使う、といったときに、身体を道具として使える自分と、身体を道具化する為の自分とが混在する。
その事を分別して考え、取り組めなければ、それは実現しない。
身体を動かすのではなく、道具化だ。
ここの理解は難しいだろうと思う。
その意味で、理解する必要など無いのだ。
向き不向きなのだ。
向いている人は、その事を一瞬で理解する。
逆に向いていない人は「理解しようとする」が結局理解出来ないのだ。
それは、自分の持つ知識の中に、あるいは思考の組み立ての中に、それが無いからだ。
しかし、ここにも面白い経過がある。
一瞬で理解する人は、一切の屁理屈を持たずに言われた事を取り組む。
その経過の結果、また一瞬で理解が深まる。
しかし、その逆の場合は、入口のところで理解しようとしているから、そこで足止めを食らって深くなることはない。
そんな「人というもの」を考えさせてくれるのが稽古だ。