久しぶりの熊野
早朝東京を発ち、熊野の道場に帰った。
金木犀の甘い香り、野菜の瑞々しさが、人の住むところだと再確認させてくれた。
台風があったにも関わらず、水は嬉しい事にちゃんと出ている。
掃除を終え、一寸一服。
ここに来て重たい話を沢山聞く。
その度に思うのが「本気で生きろよ」だ。
岡山の高校生は、ある意味で元気は良い。
しかし、どこか現実離れしていた。
リクエストで正面向かい会いをしたが、誰も私の前にはいなかった。
赤ちゃんは、ちゃんといるのにどうしてだろう?
もちろん、それは改まるからだ。
しかし、改まったところで自分は自分でしかない。
どうして、赤ちゃんの時期を過ぎると、人はいなくなるのか。
いなくなるというのは、文字通りの事ではない。
「わたし」が何かを「意識する」から、「わたし」が希薄になり、当然対象者としての「あなた」は姿を消すということだ。
つまり、私の前にいなかったのではなく、皆の前に立つ私が対象ではなく、自分の「意識と意識の中」という脳内わたしが対象だということだ。
来週は「武禅」だ。ここのところを徹底的に突っ込み合う。
「いません」「気持ち悪いです」と。
それでも脳内わたしから這い出て来ない。
つまり、「本気」とは一番縁遠いところにいるのが大方の人だ。
さて、自分でどう修羅場を作り出せるか。