わたしと私、何時で会うのだ?
わたしの対象者がいなくて、全てがわたしの思いにとって代わる。
これは、一言でいうと自意識が幼稚と片付けられる。
しかし、それは本質だが直接そこには手を出せない。
幼稚ということの症状を一つ一つ改善するしかないのだろう。
その改善の過程でわたしが気付いていくしかない。
ただ、幼稚でも良いのかもしれない、ということもある。
その種の人達の世界があり、それはそれで成立しているからだ。
例えば、一般的に高校生なら高校生で、そのレベルで大方がまとまっているからだ。
もちろん、そんな中でも自意識が成長している人もいる。
そういう人は、全体から外れているか、交わらない。
どうして、そういった違いが有るのか、生まれるのか。
それとも何かしらの影響関係なのか。
「武禅」は、ここを強制的に気付く為にある。
しかし、それは一瞬で起こるから、そもそも違いが有り、それの切っ掛けが必要だったのかもしれない。
うだうだと、時間のかかる人もいるし、そういった人は殆どが成長しない。
但し知識は増える。
生きているということは、そういった二重の構造の中を歩いているように思う。
その意味で、わたしに出会えないまま、死んでいく人もいるだろう。
それこそ巷で流行っている「いま」ということを、知識としてしか自分の中に放り込めない人達だ。
私の言い方で言えば「いま」など無い。
そう認識した時点で「いま」ではないからだ。
その時、その瞬間の全てに自分が向いている、それが「いまを生きている」ということだ。
決して容易く手に入るものではないが、いまを生きている事実があるのだから、容易いともいえるのだ。
生きている事実を一度客観視し、それに主体として取り組む。
「武禅」は、そこを突っ込んでいくが、今回100回目で一応終了する。