生きるという死とのバランス
初詣は玉置山へ。
山が御神体だ。
鳥居をくぐり参道を少し歩くと、この神社特有の凛とした空気に包まれた。
それは山のせいか、巨木群のせいか1000mの高さなのか、いや、山が御神体だからと思いたい。
とにかく年の初めはこの空気だ。
何時ものように、階段を上がり本殿で両手を合わす。
少し離れた稲荷神社。毎年よりも、何となく存在感が増している。
「何でやろ?」
そんな正月2日目携帯にメールが入った。
幼稚園から一緒の友人からだった。
珠算教室も小学校も中学も同じ学校だった。
しばらくの時間を置き、ジャズドラム時代に再会。
何と友人はジャズベースをやっていた。
その後、バーラウンジを経営していた。
メールは「どうも悪いよう」と書かれてあった。
?????どういうこと?
経営が不振なのか?
そんな時、大阪の別の友人から電話が入った。
すい臓がんだそうだ。
11月に「お酒が不味い」と思い病院へ行った時にがんを発見。
そのまま入院し、完全に手遅れだったと言う。
良い人生だったのか、悪い人生だったのか。
それは客観的な話ではない。
当人がどう思うのかだけだ。
当人の周りは色々な思いはあるだろうが、その意味では関係ない。
自分はどう生きるのか、どう生きたいのか。
そのことを自分の頭で考え、自分の身体で行動する。
生きている、それ自身が答えである。
それが消えゆく生命と、つまり、消えゆく自分自身とのバランスだ。
それが全てだ。