誰かの言葉で一杯な自分

人はどれほど漠然とした言葉を使っているのか、注意深く他人の話を聞くのは面白い。
それらはワークショップでも、教室でも「明鏡塾」でも同じだ。
だから、そこを突っ込んでいく。
日常会話は、漠然とした言葉の羅列でも大丈夫だ。
というのは、余り突っ込みすぎると、親しい人でも最後には怒らせてしまうからだ。
本当は怒らないのだが、突っ込み慣れしていない人が大半だし、自分の使う言葉を突っ込んでいない人が大半だからだ。
つまり、自分が使う言葉は家庭環境やテレビなどメディアを含んだ環境、さらに学校教育という中で、インプットされただけのものだが、その自分が用いている言葉に違和感を持たない人が大半だということだ。
つまり、一般論として使われている言葉を、自分が考えた言葉、自分の内的なモノを表す言葉だと信じて疑わないのだ。
そうなるとどうなるかというと、他人の言葉をそのまま使っているのだから、自分そのものとは何らかのギャップが生じる。
それが自分に対する無意識的な不信をよんだり、他人に対する不信、状況や環境に対する不信となるのだ。
当たり前だ、例えて言うならば夢の中の言葉を、現実に対応させているからだ。
人の会話や話を聞いていて吹き出しそうになる時がある。
それはまるでドラマの中の台詞のようだからだ。
これでは世の中無茶苦茶になっていって当然だ。
確かに現実に生きているのだが、頭の中は誰かの言葉で一杯だからだ。

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