挫折の為の公式
漠然とした言葉は、もしも自分に目標なり目的なりが有った場合、それらを実現することが出来ない方向に進める。
だから、厳密にしていかなければいけないのだ。
つまり、具体化する為に厳密でなければいけない、ということだ。
これは自分自身の体験からだ。
自分で言葉を発しながら、「あれっ、これってどういうことだろう?」という疑問が湧いたのが事の始まりだ。
これは、今でも続いている。
そのことによって、どうでもいいことと、どうでも良くないことの振り分けが瞬時に出来るようになっている。
どうでもいいことというのは、自分では解決出来ないこと、今直ぐ何とかなることではないことで、どうでもよくないことというのは、自分が実際に出来る事だ。
目標や目的を持っている場合、自分が実際に出来る事からしか手を付けてはいけない。
自分が実際に出来ることを量的に沢山やるから、自動的(無意識的に・知らない間に)に次にやることが見えて来るのだ。
この自動的というのが大事で、自分勝手に考えて前に進んではいけないのだ。
そうすると、自動的に後退してしまう。
元の木阿弥という奴だ。
しかし、現代の世の中はこの自動的を好まない。
漠然としている方が好きだ。
「〜やりたい・〜なりたい」で山手線状態になっていることだ。
やりたければやればいい、なりたいのならなればいい。
その一歩は、具体化できる言葉、具体的な行動からしかうまれない。
何時も書いている事だが、この具体的一歩を量的に沢山積んだ時、当然何かしらの結果が目の前に現れる。
そうすると、直ぐに次の事を頭に浮かべてしまう。
もっともっと先の事に思いを巡らすのだ。
つまり、自分の頭が暴走状態になり、その暴走状態に熱中してしまうことだ。
それがその人の癖であり、その事が目的や目標、さらには、折角の結果をゼロにしてしまう。
つまり、自分が自分の癖により挫折させるのだ。
私はそれを「挫折の為の公式」とよぶ。
つまり、折角の自分が自分の手によって生み出した最初の結果に対して、自分自身が評価していない、喜んでいないのだ。
出来ないことが出来た喜び、あるいは、自分に対しての周りの評価や態度が良くなった事への喜びが無いのだ。
そんなことを聞くと「馬鹿か」と思わず言いたくなる。
どうして自分を評価しないのだと。
それがあってこそ、自分の踏み出した一歩を更に充実させるのであって、次の事、先のことに思いを巡らせた途端に、その事は過ぎ去った時間の藻屑となって消えてしまうのだ。
自分を評価し更に充実させるから、次の事が具体的に見えてくるし、次の段階に、あるいは、自分の目的や目標が自動的に近づいているという状態になるのだ。
明日から春のヨーロッパツアーに出発する。
今回は、かなりタイトなスケジュールになる。
その分、色々な人と出会えるということでもある。
ただ、ヨーロッパからの情報によると、気候がかなり不順だということが気になる。
夏のようだと思えば、冬のような日もあるらしい。
何時も、旅だから荷物を出来る限り最小にしようとしているのだが、それがままならないようだ。
薄手のダウンを一枚入れようか。