遊びも

見るとか聞くというのは、余りにも無意識的なことなので、その事を徹底的に考えるということはしない。
しかし、ふと気付く時がある。
そうか、見るというのは、自分の持つ知識が外に写っただけだと。
つまり、自分の知っていることしか見えていないのだと気付くのだ。
知らないことは見えない。
この知らないという中には好奇心の方向も含まれる。
そんなことを武道の稽古中、30代の時に突然気付いた。
つまり、どこまで行っても自分の枠から出ることは出来ない、ということに気付いたのだ。
孫悟空がお釈迦様の掌から出られない、というのはこの事かと閃いたのだ。
で、その枠を取っ払う、つまり、自分の成長限界を決めている自分を乗り越えるにはどうするか。
同時にそんな事も考え始めた。
もちろん、答えは未だに出ない。
もしかしたら、死ぬまで考えても出ないのかもしれない。
しかし、そんな遊びを持てる事が幸せなのかもしれない。
電車に乗ると、以前に増してスマホや携帯で時間を潰している人が目につく。
道具に遊んで貰わなければならない人達が激増しているということだ。
遊ぶという、それこそ自由そのものである筈の時間空間も、道具に管理されなければならない人。
それは人なのか?
もちろん、人なのだろう。
それも私の枠、それぞれの人の枠だから、私に否定する権利も必要も無いのだが。

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