声と音は違う
ワークショップや「武禅」で、一番重要視しているのが「関係」だ。
それを知識としてではなく、実際として稽古をする。
その一つに「声を届ける」がある。
以前参加してくれていた青年が、その後のエピソードを聞かせてくれた。
青年は害獣駆除の仕事をしている。
だから現場は山奥だ。
ある時、ただならぬ気配を感じ、振り返ると自分に向かって、大きな猪が攻撃してきたのだ。
距離があれば逃げられるが、距離が無いので動けなかった。
そこで思わず「エ~イ」と発した。
猪はそれにたじろぎ、振り返って逃げていったという。
猪が人間の声にひるんで逃げたという例は、過去にも無いし有り得ないのだ。
では、何だったのか?
青年の目に見えない「意思」が猪に届いたのだ。
その意思が、関係性の一番の基本だ。
意思の無い台詞、意思の無いダンス、あるのは段取りだけ。
あるいは自己満足だけ。
それではダンスにもならないし、演劇にもならない。
しかし、それは日常の会話でも同じだ。
意思の無い会話。
誰と誰が話しているのか分からない会話。
カフェで会話をしている人を見ていると、その人同士である必要が無いことが見える。
意思の無い声は、声ではなく音だ。
だからやかましい。
小声で話すと、聞こえない。
拡散するからだ。
意思のある声は静かだ。
指向性があるから、他の人の迷惑にはならない。
酔っ払いの席が、どれだけやかましいか分かるだろう。
拡散してしまっているからだ。
ということを実際に体感していくのが稽古だ。
すると、その人に意思があるのか無いのかが、明確に分かるようになる。
親しげに話していても、音を出しているだけ、ということが見えてくる。
ということは、自分に話しかける人が、自分にとって重要なのか、単なる社会的な付き合いで良いのか、を苦もなく選り分けることが出来るということだ。
しかし、それが親子であれば、話にならない。
それこそ社会的な繋がりしか無いのだから。
4月28.29.30.5月1日京都ワークショップ
詳しくは
https://www.hino-budo.com/2014KyotoWS.htm