見えること見えない事
それこそ、エアー胸骨操作やエアー片手片手取りは、一寸真似をしっかりすれば出来る。
しかし、そこに相手の力というプレッシャーがかかると、たちまち出来なくなる。
何でもそんなものだ。
つまり、見えている事は意外と楽にできるということだ。
しかし、見えない事、例えば、どういう原理で身体を動かしているのか、実際問題どこから力が出ているのか、どんな世界観が潜んでいるのか、というようなことは見えないし分からない。
分からない人が、武道等でそれの相手をしても分からない。
ただ「崩れた」というような、同じく目に見えることしか分からない。
大工さんが金槌で釘を打つ。
それは誰にでも見える。
しかし、どんな力加減なのかは、力加減を知っている、分かっている人にしか、それは見えない。
だから、分かろうとする。
しかし、分かろうとするのは、あくまでも自分なりにだ。
実は、どんなことでも、分かろうではなくそれぞれの作業を継続し、ある時期が来ると「分かる」のだ。
全てが分かるのだ。
性急になると「そうか、こうすれば釘を打つのに力はいらないのだ」と、その事に関して自分なりに発見をする。
しかし、それは大工さんの釘を打つのと同じなのではない。
大工さんが何十年という時間の中で培った、釘を打つは文字通りのことだけではなく、様々な気遣いがそこにある。
もっと、根本的な事を言えば、大工さんは釘を打つのを目的として大工になったのではないことだ。
大工さんにとっては、釘を打つのはあくまでも部分だ。
もちろん、ぼんくらな大工さんもいるから、もしかしたら自分なりのやり方の方が、ぼんくらな大工さんより優れている場合もある。
しかし、その事は、優れた大工さんの釘打ちと全く関係が無い。
自分は一体何を見ているのか、問題はそれだけだ。
4月28.29.30.5月1日京都ワークショップ
詳しくは
https://www.hino-budo.com/2014KyotoWS.htm