動きは、人間全体の作業が必要だ
立ち止まって思い込む。
考えるではなく「思う」という日常の何でもない一コマ。
例えば、先日の「そのままで~」を聞いたり言われたとする。
そうすると、大方の人は「そうか」あるいは、逆の「なんでやねん」と反応する事がある。
これが「居着く入り口」だ。
何れにしても流れを止めているからだ。
それは、全く無意味な瞬間であり、自分の流れを途切らせる行為だ。
違う言い方をすれば、その立ち止まるという時間を持つという習慣が、自分のエンジンの回転数を上げられない原因でもある。
それは、この「立ち止まる」という行為の中にある、例えば「気付く」という事が崇高な事だと思い込んでいるし、この立ち止まる状態を「考える」と勘違いしているからだ。
もちろん、その思い込みの原因は自分以外の何か、あるいは、誰かからの洗脳なのだがそれには気付いていないのだ。
もし、自分自身が自分自身の中に持つ、目的や情熱だけで動いているのであれば、そういう立ち止まり状態は起こらない。
何故かというと、自分自身が決めた方向以外の雑音に耳を傾ける必要が無いので、まず立ち止まらないし立ち止まっている暇がないからだ。
それは、バタバタしているという意味ではない。
単に、立ち止まるという事、立ち止まる為の言葉を知らないからだ。
その「言葉を知らない」という事では、私も相当言葉を知らない。
だから、自分にとって無意味な言葉に引っ張られる事も無いし、立ち止まったり混乱する事も無い。
人生は「やる」のか「やらないのか」この二つしかないと私は結論付けている。
その言葉の隙間を作り出すのが言葉だ。
気持ちの動きではなく言葉が邪魔をしているのだ。
それは、その言葉、例えば、「気付いた」という言葉を私は持たないから、気付いたという状態があった瞬間に、気付いた事を行動している、あるいは、行動する為の具体化作業をしているのだ。
つまり、行為の最中に気付いたという状態があり、「あ、そうか」があり、行為がそこで完全に変化しているということだ。
「立ち止まるなよ」そんな言葉を武道やワークショップでは常に繰り返している。