「天使のダミ声」を体感しに行った。何回か叫んだ「きむら!」と
「お前、まだ死ぬなよ!」思わずこころの中で呟いた。
私と70年代のフリージャズシーンを戦って来た、戦友のベーシストと何故か被ってしまったからだ。
木村の危うい姿と哀愁を帯びた声、そして歌が、それを彷彿させたのかもしれない。
「そのままやんけ」つまり、嘘の無い在り様だから、その言葉がまるっぽハマっている木村。
二度とこんなミュージシャンは出て来る事はないだろう。
歌を聴きながら、姿を見ながら、トークを聴きながら思った。
木村が育った地域、そして時代。
それらが相まった中で生まれた憂歌団。
そして木村充揮。
「天使のダミ声」というキャッチは、本当にそうだ。
しかしそれは、木村がこの年齢になり、始めて実体化されたのであって、当初から「天使」だったのではない。
木村の歌は「木村」だ。
酒を飲みながら歌い、舞台上で「おかわり」をねだる。
まるで子供の様な仕草。
そういえば今回は煙草は吸っていなかったなぁ。
もしかしたら止めた?酒は止めないのに?
そんな木村の中に流れる血や細胞が、そしてそれ等を刺激した環境や生き様が、木村の歌であり木村自身だ。
このライブでは、幕開けから泣かされた。
そこに意味も理由も無い。
意味不明の涙が何度か溢れた。
他人のライブを聴きに行ったのは、もしかしたら初めてかもしれない。
もちろん、ジャズピアノの故田中武久さんとは懇意にして貰っていたし、お店ではジャズ時代の後輩達も演奏していたので結構顔を出していた。
それを除けば、本当に初めてだろうと思う。
元憂歌団の木村充揮のロックンロールソロライブだ。
憂歌団というブルースバンドとは、1970年代京大西部講堂を拠点としていた主催者が開催する、ごった煮のコンサートでよく顔を合わせていた。
主催者が「このバンドええやろ」と言っていたのを思い出す。
当時は、私自身もバリバリにとんがっていたので、「ふ~ん」てな調子で聴く耳を持たなかった。
しかし、間違いなくこの時代を真っ向から駆け抜けた者同士である事には違いない。
別段そういった思い出を懐かしんで足を運んだのではない。
純粋に「木村」のブルースを聴きたかったからだ。
内科医の原田先生も誘って盛り上がりに行った。
原田先生は何を隠そうブルースシンガーでもあるし、憂歌団やその近辺のミュージシャンをまんざら知らない訳ではないので誘ったのだ。
ライブ会場は満員の盛況だった。
これは少し木村充揮を舐めていた。
東京にもファンは沢山いたのだ。
そらそうだろう。
50年近く歌っているのだから、ファンがいない筈はないのだ。
ライブは、「そのまま」の木村だった。
ボソッと喋る大阪弁がツボにはまる。
私達は水割りグラスを片手に笑い転げた。
アンコールの最後は「君といつまでも」だった。
セリフをどうするのかなと思っていたら「、、、、僕は僕は、僕は死ぬまで歌うぞ」
終演後、その余韻にもう少し漂っていたかったので、居酒屋で良い時間を持った。
結局、帰宅したのは12時になっていた。
日常とはかけ離れた話題と空間、そして時間。