「自然体」とは自分自身の気持ちや閃きにしたがって生きている人をいう

TVで久しぶりに将棋の羽生さんを見た。
数年前に対談させて頂いた頃と比べて、御髪に白い色が目だっていたが、お話される姿が何一つ変わっていない。

インタビュアーが「年齢とかを気にしますか?何か衰えたとかありますか?」と質問した。
羽生さんは「私は気にしていないですが、その質問が多いので皆さん気にされているのですね?と思っています」と答えられていた。
その答えを聞いて、まさにその通りだと思った。

この、年齢ということだけで言えば、私も羽生さんと同じだ。
私は気にしていないが、周りからは始終そんな質問を受ける。

では、どうして年齢を気にするのか?

それは一つに、自分が今している事に主きをおいていない、あるいは、自分自身に主きを置けていないから。
一つに、時間制の世の中に縛られているからだ。

時間制というのは、別段いわゆる「時間」の事ではなく、6.3.3制の学校教育や定年という区切り他、様々なところにある時間的制約だ。
それに対して何の疑問も持たずに、その制約が自分自身を考える基盤として無意識的に染み付いてしまっている事だ。

それが、自営業の方や職人さん達には定年が無いし、「その事」が自分自身そのものなので、きっと年齢を気にしている人は僅かだと思う。

インタビュアーは、その羽生さんの答えに対して「自然体なのですね」と感想を漏らした。
もちろん、話は噛み合っていないという事なのだが、この「自然体」という事で気付いた事があった。
もちろん、武道用語というかその世界でよく使われている言葉ではあるが、今一つ私としてはハッキリしない使い方だ。
つまり、その解釈が本質には届いていないのだ。

この羽生さんの答えとインタビュアーの解釈が、私の何かのスイッチを入れてくれたのか回路を結んでくれたのかは知らないが、もしかしたら本質に王手を掛けられる感じがしたのだ。

自分自身の外側にある世界と、自分自身の内的な世界。
内的な世界とは、この場合は「気持ち」という自分自身が主導権を持つ事だ。
外側の世界というのは、世間の風潮や政治で決めたルールの事になる。

その外側に振り回されずに、自分自身を優先させて生きている人を「自然体」と呼ぶ事が、「自然体」という言葉のより本質に近いものではないかと閃いたのだ。
もちろん、もっと考えてみなければ分からないが、取り敢えずはこの解釈で進んでみようと思う。

という具合に、この場合なら私自身が「自然体」、つまり、私の閃きにしたがって生きているという事になるのだ。

姫路城にて

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