意味不明の余裕が様々な言葉に振り回される

「承認欲求」何度か見た単語だ。
調べて見ると『「他者から認められたい」「自分を価値ある存在として認めたい」という欲求のことをいいます。』ということらしい。

私の子供の頃や10代20代ではなかった言葉だ。
心情的に持っていた人はいただろうが、きっと今ほど多くはいなかったのではないかと思う。

それは、その頃の大人達や親達は忙しすぎて、子供にかまっている暇がなかったからだ。
もちろん、現代の「忙しい」とは質は全く異なる。

当時は、戦後復興に日本が一丸となっていた時代だ。
時々書いているように、私の子供の頃は進駐軍もいたし、バラックの粗末な小屋で親子数人が住んでいる事など当たり前だった時代だ。

その頃の大人や親達は、本当に一生懸命働いていた。
子供や家族を養う為だ。

そんな空気は、もちろん子供にも伝わる。
子供達も無意識的にそんな空気を感じていたから、きっと現代のように親に甘えていなかったように思う。

さらに現代のようにハラスメントやジェンダー他の海外からの輸入文化が少なかったから、「男なら・女なら・長男なら・長女なら・・・」という様々な躾や風習が、ある意味での秩序を形成させていた。
だから、きっと当時の親達は安心して仕事に向かえたのではないだろうか。
また、その子供を信頼しているから、子供も安心があったのだ。

ま、そういう時代から生きてきているので、この「承認欲求」と文字化された言葉はピンとこない。

私を分解すると「他人から認められたい」の裏には「認められるような自分になろう」があったり「認めさせてやる」が必ずあり、私の場合は「認めさせてやる」と自分を発奮させる動機にはなっていた。

それは「職場で上司に」であり、「器械体操競技で」だ。
それらの場合は、ある特定の人であったり特定の世界だ。

その意味では、とにかく頑張るそれしかなかったので、「承認欲求」を起す余裕が無いという状態だ。

何れにしても「承認欲求」という心理状態は、「男なら・女なら・長男なら・長女なら・・・」という文化が芽生えさせなかったのだ。

また、「自分を価値ある存在として認めたい」は、全く理解出来ない言葉でもある。
そんな事は当たり前の事で、わざわざ言葉にする必要など無いことだからだ。

また一方では「自分を価値ある存在にしよう、価値ある存在になろう」が働いているからでもある。
そして、常にどちらが優先するかというと、「認めさせてやる」であり「価値ある存在になってやる」という主体の側である。

東京ワークショップは12月2.3.4日です。
https://www.hino-workshop.com/workshop-1

いつもの席で

Follow me!