結局は気持ちだ

動作として出来ない事は、その動作を修正する。
当たり前の事だ。

だが、「何をどう」修正するのかが問題だ。
例えば、日野武道研究所では型を徹底的に分解し、その動作の原理、力の原理、相手との関係の原理とに分けて、それぞれを稽古する形式を取っている。
しかし、分解しきった動作であっても、その動作一つが型になる。

分解された動作が型になるというのは、分解されてはいてもその単純化された動作そのものの中に、力や関係といった内容が含まれているからだ。
これは、私が分解し、これなら初心者でも取り組めるだろう、と思っていても、人それぞれで、それでも取り組めない人がいる。

その場合、武道をどう理解しているのか、自分は何を求めているのか、という事が明確化されていなければそこを超えられないのだ。
つまり、「何をどう」は、その理解度や求める度合いと正比例するからだ。

それを、中学1年生の時、大車輪をやりたくて仲間2人で研究した事と被せてみる。
主に私が、家の中で実験しそれを他の2人に提供するという事で進んでいった。
結果3人とも夏休み一杯使って、大車輪を成功させた事がある。

この時の、動作の分解方法を用いているのだが、この時の仲間二人は、私と同様に成功しているが、武道ではそれが出来ないのだ。
それは何故か?なのだ。

もちろん、大車輪と武道は、比べようも無いくらいに違うものだ。
動作の質も世界も何もかもが違う。
しかし、細かく分解すると内容が違うくらいで、そうそう違いは見当たらないのだが。
中学1年生という、目的に向かって取り組む一途な気持ちが根本的に違うからなのか?そんな事を考える。

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