感覚という当たり前の機能が難しい
昨日熊野道場に帰った。
「寒い!」だ。
でも水はコンコンと出ている。
何時もながら、これが何よりだ。
風呂は広すぎるので、ストーブを入れての入浴となる。
ブルーシートも大丈夫。
熊野の冬場は、夏の台風よりも風が強いから、そちらに気を遣う。
こうしてPCを使っていると、指先が完全にかじかんでくる。
毎冬これだ。
今日は、これから大阪へ向かう。
明日の「明鏡塾」の為だ。
受講者から「日野先生に教わっている事を、日々の臨床で自分なりにアレンジして施術をしていく事で、最近まで、気づかなかった感覚が得られるようになってきました。」と嬉しいメールが入った。
「感覚」と誰でも知っていて、誰もがそれを日常的に使ってはいるが、いざ目的を持ち使うとなると、一筋縄ではいかないのだ。
ということを、「明鏡塾」を開講してから知った。
私は、「体感覚」に関しては、中学の頃の器械体操時代から着目し、そちらに意識を常に向けている。
だから、それが常態化しているので、一般の人も同じだと思い込んでいたのだ。
「感覚」することが、それほど難しい事なのかと驚いてしまったくらいだ。
何れにしても、生体が生きている証拠としての機能なのだから、突破して欲しいものだ。