偶然、同窓生
別段、どってことない話だ。
神田道場に、生徒がママ友だと連れて来た女性、出身は大阪だという。
で、「大阪のどこ?」となる。
「谷町」「えっ、じゃ学校は」「五条小学校から夕陽中、高津~~」「ええ~~、小学校も中学も俺が先輩や」「父もです」「お父さんは幾つ?」「68.9歳だったかな?」「もし、私と1年でも被っていたら、日野というたら知ってはるで」「ええ~~そうですか、一度聞いてみます」
思わぬ、ローカルな話が神田で出来た。
別段、それがどうした?だ。
でも、妙な親近感は湧くから不思議だ。
偶然、という産物なのだろう。
先日、久しぶりにお会いしたミナの皆川さんとも、「偶然」の話になった。
デザインでの話だ。
少し筆先が動いた、その結果、それを活かして別の図柄が生まれる事もある。
それも一つの醍醐味だ。
ナマであるが故に生まれることだ。
では逆に「必然」という言葉もある。
それは私も使うが、よく考えてみると、必然と言うのは、偶然を解釈した時、論理的に詰めた時に起こる後付けなのではないかということだ。
つまり、その偶然を保証する為の自己満足が、必然だという言葉使いだ。
つまり、「論理的」というツールに合致することが、自分にとって正しい事だと思いたいということだ。
つまり、「論理的信仰」に洗脳されてしまっているのだ。
何時も考えるのは、人が生み出した全ての物体は、論理的思考で成り立っている。
しかし、論理的思考を行う「人そのもの」は、残念ながら論理で組み立てられた物ではない。
当然、人間関係など論理で解明など出来ないのだ。
自然そのものだからだ。
ここに大いなる矛盾を持つことになるのだが、その矛盾を論理で突破は出来ない。
それは、「人そのもの」に対して、組み立てられる程の定義づけが出来ないからだ。