精神修行というけれど

20代後半の若者が「精神修行」の為に武道を、と話していた。
そのものは大変素晴らしいと思う。
そういう視点を持つ人が若者にいる事も嬉しく思った。

しかし、ここからが問題だ。
では、どうすれば精神修行になるのか?だ。
ただ、何がしかの武道に取り組んでいても、自己満足は出来ても精神修行になる事はない。

精神修行というからには、精神がどうなれば良いのか、そもそも精神とは何なのか?そんな事を明確にする必要が出て来る。
そうなると、そこに幻想が蔓延し折角の高尚な思いを霧散させてしまう。

実は精神修行も、精神の鍛練も、その人の何がしかの武道や、何かに対する取り組みの結果であって、それが目的なのではないのだ。
しかし、現代はそれこそ情報社会と言われるように、例えば、悟りの境地であるとか、精神の状態を表す言葉が並び、さもそれがあるかの如く扱われている。
だから、その「言葉」を目指す。
それこそ、幻想への旅立ちだ。

何かに対する取り組み方の結果は、当然その人が過程を経て出したものだ。
その過程の中での取り組みに対する様々な葛藤が、精神なるものの状態を変化させていく。
それこそ、自意識の在り様を変えるのだ。
それは、自意識が思春期のままだと、取り組んでいる事が上達しない事に気付くからだ。

もちろん、そこでも「では、自意識を成長させよう」が目的ではない。
あくまでも取り組んでいる事を実現させる事が目的なのだ。
逆に言えば、取り組むことの質が低ければ、自意識の成長は必要ではない。

しかししかし、もう一つ穴がある。
「玉乗り名人」という言葉が象徴するものだ。
つまり、玉に乗っている時は、名人の状態だが、玉から降りた時はただの人、というものだ。
そこが面白くもあり情けなくもあるのだ。
人の仕組みの妙でもある。
だから、死ぬまで修行だというのだ。

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